年表

年表

台中県の清水に生まれる。4歳の時、叔父さんの養女となる。

養母が重病を患う。その回復と長寿を祈り、一生の菜食と自らの寿命を捧げ祈願。三日間、白衣大士(観音菩薩)から薬を頂戴する夢を見、母親は手術を受けることなく無事退院。

7月25日、養父急逝、生きる意味を探し仏教に触れる。
家族だけでなく、自らを衆生へ捧げることが最も幸せな人生と悟る。

父急逝100日目、出家のため家出。汐止の静修禅院に行くが、母に見つかり連れ戻されるも、出家の意志は変わらず。

9月、尼僧・修道法師と仏の道を求めて出発。台東に辿り着き、養母と実父に見つけられたが、正式に出家の許しを得る。

12月、王夫人(台東の信徒)の家に招かれ、そこで日本語版《法華経大講座》にある《無量義経》と初めて出会う。

花蓮で自ら落髪。許聰敏居士を師とし、法名は「修参」と命名。

3月、台北に赴き、印順導師に出会い、師の下で帰依し、法名を「證嚴」、法号を「慧璋」と命名。「仏教の為、衆生の為」という言葉を頂く。

5月、花蓮に戻り、法華経を勉学。

10月、慈善寺に移り、8カ月近く《地蔵経》を説法すると、法を聞いた多くの信者が帰依を求めた。

2月、證嚴上人は貧しい人々のために普明寺で初めて冬期救援物資を配布。配布当日、物資をもらいに来た人々に対して、ベジタリアン料理を振る舞った。

證嚴上人は、慈濟委員たちに600病床の総合病院の建設案を公表。当時の慈濟委員は僅か100人余り、会員は1万人足らず。 莫大な資金を集めるために、その時より證嚴上人は毎月台北に出向き、各業界の人と会って談話や説法を行い、慈濟の病院建設の理念を広め、病院建設の為に奔走した。

優れた医療人材を育成するため、1人あたり25,000元を提供する「慈濟医療清寒奨学金」を始める。のちに、仏教学と芸術の奨学金も追加。

「慈濟総合病院」開業。全ての命を尊重するという考え方に沿い、患者の入院保証金を免除し、困窮している患者を支援しながら、コストを惜しまず最新の医療設備を導入し、花蓮はじめ台湾東部の医療を邁進。

看護師を育む目的として、公立の授業料で受講できる学校として「慈濟看護専門学校」を開校。

1996年、文部省は原住民学生の無償入学(教育費完全に無料と生活費を支給)を認め、原住民の力になりたいという願いがようやく叶った。 また、開校式典に参加した男性ボランティアは慈濟男性の部を結成し、翌年7月に「慈誠隊」と命名。

≪證嚴上人靜思語≫が出版され、英語、日本語、中国語簡体字のバージョンも発売され、好評を博した。

證嚴上人は台中での講演で環境保全を提唱。講演後、聴衆は温かく拍手すると、上人は「拍手する手で環境保全を取り組みましょう」と呼びかけた。その後、参加者の一人である楊順苓(ヤン・シュンリン)さんは、資源回収を始め、その売上金を「慈濟ボランティア」の名義で寄付。これが、慈濟の環境保全事業の始まりとなった。

湾岸戦争の孤児や、バングラデシュ・サイクロンの被災者を助けるために、慈濟は国際支援活動を始めた。

中国本土の中部と東部で起きた洪水被害に対して、證嚴上人は「直接的、重点的、相手への尊重」及び「ビジネスや政治について話さない、故意的に布教しない」という理念を掲げ、慈濟は本格的に国際救援活動を展開した。

證嚴上人はマグサイサイ賞を受賞。賞金3万ドルは中国本土の救済支援金とフィリピンの災害救援基金に充てた。

證嚴上人は、「自らの頭や目や骨髄や脳などの身体を全て人のために尽くす」という仏教の精神に即して、9か月以上の検証と判断の結果、骨髄のドナーは「人命が救える上、自分には害が無い」ことを確認した。

9月、慈濟は保健署と主要病院の協力のもと、「骨髄バンク」を開設し、人々にドナー登録するよう呼びかけた。

ハブ台風(台風9号)は台湾の過去30年で最大級の洪水災害を引き起こした。慈濟ボランティアは「最初に駆けつけて手を差し伸べ、最後まで尽くす」という理念で、災害後の半月間に数万人を動員して救援活動にあたった。證嚴上人は「近所を支え合い、助け合う」ことを掲げ、慈濟ボランティアを居住地域別に再編成し、「地域ボランティア」という概念を広めた。

慈濟(ツーチー)大愛テレビ局開局。人文社会系の雑誌《経典》を創刊。

3月、花蓮南部の人々の健康を守るために、玉里慈濟病院を開設。 9月21日、台湾大地震が発生し、台中県と南投県が深刻な大災害に見舞われ、震災後2日以内に2万人余りのボランティアが動員され、緊急災害救援見舞金、1億6000万元を配布。続いて第二段階の支援活動として、被災者のために台湾政府が提供した17ヶ所で仮設住宅1,636戸を建て、それから第三段階で、51ヶ所の被災小中学校の再建を支援。総支援額は80億台湾ドルに上り、被災地復興への献身的な慈濟ボランティアの姿に、多くの人々が感動され、自らもボランティアに参加するきっかけとなった。

3月に関山慈濟病院、8月に大林慈濟病院を開業、医療資源の乏しい地方で地域医療を提供。

8月、慈濟大学付属慈濟中高学校・小学校が開校し、幼稚園から大学院まで一貫して継続的な教育を提供。

9月11日、アメリカ同時多発テロは世界を震撼させた。證嚴上人は、「世を震撼させる災難が起きたことに、人々は目を覚ますべきだ」と諭し、「1013 一人一善」を呼びかけた。

10月13日、慈濟はカトリック、キリスト教、イスラム教、仏教の各宗教及び各業界の代表を招き、台北で世界平和のために祈りを捧げた。

「慈濟骨髄バンク」から「慈濟骨髄幹細胞センター」へ躍進。慈濟臍帯血バンクを設立。

5月、台北慈濟病院を開業。慈濟の人文を大事に、地域医療に密着しながら、国際医療に取り組んでいく。

6月、證嚴上人の師である印順導師は101歳で他界。師の言葉「仏教のため、衆生のため」を肝に銘じ、初心を忘れずに、證嚴上人は慈濟人を率いて、この40年間を歩んできた。

5月、慈濟基金会創立40周年記念式典にて、国連顧問の朱兆吉博士が出席し、国連事務総長アナン氏の祝辞を代読。

予防医学や地域医療、高齢者の保健に重点を置き、台中慈濟病院を開業。

中国国務院台湾事務局は、中国において台湾慈濟慈善事業基金会の設立登記を承認。中国本土以外の居住者が代表を務める基金会としては初。

ミャンマーのサイクロン災害及び中国四川大地震は甚大な被害をもたらした。證嚴上人は世界各地の慈濟ボランティアに、毎日お祈りを捧げ、そして地球を守るように菜食や環境保全活動を推進することを呼び掛けた。

台風8号(モーラコット台風)が台湾南部を襲い、上人は「災害復旧のために被災者雇用」というモデルを発案し、被災者自らが災害支援に参加しながら、支援を受けるこのモデルは、のちのフィリピン台風災害支援、ハイチ地震支援、パキスタン水害支援などで、大きな成果が得られた。

慈濟基金会は「国連経済社会理事会」よりNGOとしての特殊諮問資格を与えられる。

東日本大震災が発生。慈濟は十回に亘って被災者に対して、96964世帯に総額50億円以上の災害見舞金を配った。

慈濟はバチカン市国のLo vuole il Cuore(愛心基金会)と、人道支援などについて協力提携の備忘録を交わした。

国連気候変動枠組条約第19回締約国会議(COP19)において、慈濟は初めてオブサーバーとして参加。

高雄にてガス爆発事故発生。被災者のみならず、近隣住民にも寄り添い、延べ4万人以上のボランティアが動員された。

エボラ出血熱が西アフリカで流行し、パンデミックとなった。慈濟は複数の基金会と協力し、シエラレオネに物資支援。

4月、ネパール地震で甚大な被害。慈濟は緊急物資支援をはじめ、仮設教室、仮設住宅、そして学校などの建設を支援した。

慈濟50周年式典にて、證嚴上人は台湾総統 馬英九氏より「淑世濟度」と書かれている扁額が贈られた。また、アメリカ国土安全保障省のマイエス(David L. Myers)がアメリカ・オバマ大統領の祝辞を代読。

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