温かい食事が因縁の始まり
温かい食事で慈濟との縁ができてから間もなく、ボランティアの黄素梅は代々木公園の炊出し団体リストを理解したいので、柏木氏に提供してもらった。この日日本支部を訪れた時、正面玄関の前に立って、入るのを躊躇していた。「体中が汚れていて、私のように卑俗な者がどうしてこのような清浄な所へ入れるだろうか…」と柏木氏は初めて来た時の不安を語った。けれど、黄素梅に温かく迎え入れられたこの一日を思い出すと「まるで小さなゴミのようなものが、大きな清流の中に洗い流されるような感じでした。」と彼は振り返って語った。
もともとIT企業に勤めていたが、中高年で失業して十年近くになり、出費を抑えるため、友人から商品倉庫兼住居の小部屋に無料で住まわせてもらい、雨風が凌げることだけでもラッキーと思った。その後友人の紹介で、「列並び代行」の仕事を始め、得た収入で水道光熱代に当てはめようとした。
慈濟を知って間もなく、ボランティアは彼に毎月恒例の街頭清掃活動に参加するように誘った。そして街頭清掃後、いつも皆と一緒に日本支部で簡単な食事を取りながらテレビで上人の説法の画面を見る機会があった。「テレビからではなく、直接上人様にお会いできれば…」彼は心の中でひそかに思ったが、上人は海外に行ったことがないことを知らされて、「じゃ台湾に一度だけ行ってみたい」考えを変えた。


アルバイトに精を出し 出国費用を捻出
一度も海外に行ったことがなく、行きたいとも思っていなかった柏木氏。しかし、この考えが浮かんでから、アルバイトに全力精を出した。列並び代行は唯一の仕事、不定期でありながら、頼まれた限定品や特売品を購入しなければならず、「場所は都内には限らず、時には車に乗って遠くの電気店やショッピングセンターまで行かなければ、…」。
時には早朝、時には夜中に、先ず並んで番号札を取ってから、品物を購入したり、抽選に参加したりすることができた。簡単ようにみえるが、いつも六、七時間をかけるか時に徹夜に列並んでいて、やっとオタクたちがはまってほしがる商品をゲットできた。店の周辺に殆ど座るところがなく、真冬には襟を立て首をすぼめ、雨に傘をさして寒風の中、朝まで並ばなければならない。この唯一の仕事で得た収入を時給で換算すれば、微々たるものでした。


大家族に溶け込む
彼の花蓮行の夢を実現し、皆との距離を縮めるため、ボランティアたちはいろいろな工夫を試みた。去年の八月、四谷区民ホールで行われる灌仏会のイベント中の「行願」の演舞に、人手不足で手伝ってもらいたいと巧く理由つけて彼を誘い、「特訓」という形で個別指導をもつけた。
公演が終わって、彼は皆と一緒に心得について分かち合った。「人手が足りないって聞いて、欠員を補うため手伝ったが、舞台に上がるまで演ずるとは思わなかった…」、「みんなと一緒っていう感じは楽しい!鑑真和上がいかなる困難に直面しても勇気をもって挑戦する精神は、とても学びたい。」と彼が語った。


代々木公園からボランティアまで
家族の関係で、十何歳の時「法華経」を勉強した彼は慈濟に対して一種の親しみを感じた。炊出しの日、彼は自発的にお料理を運び、午後配給が終わると、「公園の後片付けを手伝えば、ボランティアたちは早くうちに帰れる…」食後彼は自発的に会場を整理した。代々木公園の炊出しの日に、彼のリュックにはゴミ袋とトングが永遠に入っている。
交通費を節約するため、彼は四、五十分かけて歩いて支部にやって来るが、必要な時いつも喜んで出てきてくれる。炊出しの日は、ボランティアが準備した募金箱に自発的にお金を投入する。「みんなと一緒で仲間の感覚が好きだ。」奉仕に恩返しする機会があるのも好きだ。



共感でホームレスを激励
今年三月柏木氏は遂に念願どおり花蓮の静思精舎を訪れることができた。四日間の滞在中、人安基金会花蓮平安エリアにも向かい自身の物語に託けて、地元のホームレスを激励した。言葉さえ通じないが、誠心誠意の心をもって、現地のホームレスの事に親身に理解しようとした。
その中に、交通事故で足を怪我し、生活困難に陥ったホームレスがいた。柏木氏は、自分の衣類をめくって、太ももにはまだボルトがあることを彼に見せたと同時に、体に十分養生し、家に籠らないで外に出かけるか、或いはボランティア活動参加するよう彼を励ました。中古商店の職に就けたことと自分は零度以下で列並びのと比べたらずっと幸せだと伝えた。
愛の心は民族を超えて、言語の壁を突き破れた。日本から来た慈濟人柏木冬樹氏の物語は、写実のままで人心を奮い立たせるものでした。今回の分かち合いを通じて、現地のホームレスたちを励まし、違った新しい未来を見つけ導いていくよう、同行したボランティアたちも期待を寄せた。
「日本に帰ったら、慈濟のボランティア活動に多く参加し、機会があれば上人にもっとお目にかかりたい。」柏木氏の夢の旅は終わらず、更なる心の洗濯と充電をすることになったと言えよう。

