令和六年、誰もが平穏を願う元日、一月一日午後四時十分ごろに、石川県能登地方を震源とするマグニチュード(M)7.6、深さ約十キロの規模を示す地震が発生し、世界各国に報じられた。元々お正月で、人々は神社やお寺に初詣に行き、ご家族に会いに帰省する等、和気藹々な光景が見られるはずだった。しかし、時が来て、天地が揺れ続けた。
災害の事前調査と支援活動の開始
日本海に近い風光明媚な能登半島は、海産物や漆塗りで有名だったが、東京慈濟の皆さんにとっては馴染みの薄い場所。一月五日、北陸新幹線の正常運行を確認し、台湾から支援に入った陳金発は、陳思道、呂建安、池田浩一とともに被災地へ向かった。 七尾病院でメンバーは石川県台湾振興会の陳文筆会長と陳夫人に付き添い、穴水町に入った。 現地で、道路は寸断され、政府は早急に復旧させようとしており、物凄い勢いで車も走っていた。十一日に渉外チームは再び被災地に赴き、現地の方と炊き出し場所確保の相談を経て、翌日に炊き出しチームが出動した。
今回の支援に向けて、私たちが出来るだけ早く活動始められたのは、沢山の方々のお力添えと、団体として長年の炊き出し経験があるからだった。それに、何よりも被災された方々の無力さや苦しみを自分のように感じ、なんとしても栄養のある温かいものをとってほしいという上人の思いと支えがあるからだった。支援報道に関して、NHKと朝日をはじめ、北陸、北国、産経新聞等のメディア関係者は、私たちに問いかけた。台湾発祥のボランティア団体はなぜここに来たのか。純粋にそうしなければと思う一心だけだった。と、私たちは答えた。
現地に向かう炊き出しチームの出発とともに、被災地に行けずに残ったメンバーも、宮城、東京、群馬、大阪で街中募金活動を行った。
炊き出しの第二段階
炊き出しの第一段階は、一月十二日から二十九日まで続いた。 能登半島で炊き出しの六日目は、日本海から東に昇る真っ赤な太陽を見られ、とても貴重な美しい光景だった。途中で、上人から何度も「遠回りしないように」「政府の法令も遵守しよう」「一刻も早く支援の機会を掴もう」と念を押して下さったことを思い出した。地震後に、上人は何度も日本の慈濟の人々に感謝の気持ちを伝え、災害救援の方向を示してくださった。

1月2日、上人は次のように教えを伝えて下った
1月3日、上人は次のように教えを伝えて下った
1月8日、上人は次のように教えを伝えて下った
「私たち日本支部は、菩薩のような、メンバーの皆さんが心を合わせ、団結し、助け合い、私は常に安心しています。 本当に感謝しています。」
「今は緊急な時期で、物資や食事を迅速に届けられる事も、政府のルールに協力する事も重要であり、それは何度も伝えてきました。皆さんにお願いしたいのは、心を合わせて、お互いを助け合う事である。また、台湾からのメンバー陳金発さんも今は私の側にいて、現地で見た状況を伝えてくれた。本当にありがとうございます。現地に行くならば、支援活動中は、自分の身を大切にし、体調にもお気をつけて下さい。皆さんが心を合わせて支援している事に意味があります。
2月1日、上人は次のように教えを伝えて下った
「メンバーの皆さんは凄く幸せですね。慈濟では決しては大変と言わず、それを祝福として受けとめる。緊急事態の中、様々な活動がある中で、それを停止するのではなく、同時に将来の為に歩む道を開拓し、その為には人材も、力も必要になる。メンバーの皆さんは現地に向かい、皆さんと知り合い、繋がりを持つ。私達は名誉や利益のためではなく、人のため存在しています。だから、長い目で見れば人と力は凄く大切です。人が多ければ、力も強くなる。」
「現地の皆さんのこれからがまだ不安定な中、炊き出しはこれからも続けて行きます。そして、何よりも、菜食の食事をすすめ、仏法の教えをも皆さんに伝えてください。菜食は、体の健康と、地球温暖化の対策にも繋がります。現に発表されている研究結果などを元に、伝えて下さい。」
二月二十六日に、ボランティアの皆さんは第二段階の炊き出しをはじめ、労働面の金銭的支援、慈濟茶屋という現地の皆さんの声をきく場を設けた。たとえ寒い北陸地方でも、上人の丁寧な教えと、私達の温かい気持ちがあれば、また引き続き次の化城に向かう事ができる。

